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この日だけ1月 31日 土 .
右の人と同じく年明けをこじらせたひらつかです。初詣に行かず、年賀状書かず、風邪をひき、作業ペースガタ落ちな感じで今日まで参りました。日記も1月以上書きませんでしたが、ひとえに私の怠慢によるものであります。

しかし今日は「Live ROUND ABOUT JOURNAL」を観戦してきたので仕方ない。何しろこれは「来客者にブログ感想を積極的に求めるイベント」なのです。オープンハウスなどに伺った際に個人的にウェブなどで感想を書くように求められる機会はたびたびあります。しかしここまで大々的に呼びかけるケースは他に知りません。イベントが終わると確信犯的に藤村さんが聴衆に向かってブログ執筆の呼びかけを行います。(表面的な感想を書かないようにクギもさします笑)

しかし私は怠慢により最後の全体討論しか聞けずでした。なので今日書くのはメディアプロジェクトとして位置づけられる「Live ROUND ABOUT JOURNAL」の構造についての感想にします。しかも結構勝手なことを言います。

「Live ROUND ABOUT JOURNAL」において設計されている議論の場の構造は、もしかしたら”アメブロ”に近いのかもしれない。

1組20分(だったかな)でキッチリ終わるプレゼン。段取り通り大量の出演者をさばき観客をあきさせない工夫。こうした場が、緻密な設計なしでウマく進むわけがなく、たしか昨年のケースでは出演者(1日10組×2日間)全員との打ち合わせが行われ、前日までにパワーポイント資料の提出が義務付けられたと聞きました……。

そして会場に若い建築関係者の興味を引くタレントを集結させ(意図はそれだけではないが)、彼らに上記のような”教育”を施して、さらには観客にもコメントを呼びかける。

で、アメブロの場合。アメブロのシステムのことはよく知らないので相当勝手な想像で書きますが、よく言われているのはコメントの検閲を人力で行っていること。そして特徴的な、改行の多い文体と写真の掲載。これは完全に想像ですが、少なくとも初期には、アメブロ側が書き手にブログ作法を指導するようなことも多かったのでは。そしてトラックバックとかパーマリンクといった機能はさておき、単純にコメントの量で人気ランキングを決める。こうした教育とメンテナンスと単純化によって、日本で人気のあるブログサイトとなった、という印象です。背景にあるのは、技術よりも人力。泥臭い企業努力。

「Live ROUND ABOUT JOURNAL」でも多彩な出演者たちに簡潔なプレゼンをさせ、観客にコメントを求める。その意図は、その場で議論を完結させず、会をきっかけにさらなる議論を誘発し、思想やら活動やらを浸透させて行くこと。まさしく今の時代のメディアプロジェクトです。(その場で発行される新聞は、2ちゃんねるのスレの1に貼り付けられたニュースソース的なものかもしれない)

しかしこれを上手く機能させるにはアメブロ的な人力アーキテクチャを駆使しないと難しい、ということなんだろうな、と。

なお今年は出演者との事前打ち合わせはしなかったそうです。イベントが定着した、ということなのでしょう……?

※「建築雑誌」4月号「勝手メディアの台頭(仮)」特集準備中。建築メディアの変化についてリサーチします。「ROUND ABOUT JOURNAL」についての寄稿も。いま書店に売っている「AXIS」1月号では「ROUND ABOUT JOURNAL」のレビュー(というか今日の予告編)を掲載してます。

こんにちは。厄だか大殺界だかの明けた世界は明るくてまぶしいです。

「建築ノート」NO.6に「京都の街は学校だ!」と題してFOBA梅林克さんの記事を書きました。ふだんは刺青とか撮ってる瀧本加奈子さんが撮影した克さんのかっこよいグラビアが見どころです。伏見稲荷ロケもあるでよ。

アーキフォーラム中村竜治の回に行きましたよ。アーキフォーラム何年ぶりだ?4年や5年じゃ効かない気がするぐらいぶりだ。厄だか大殺界だか知らないけど長かったなー。ともあれ司会者(+聴衆)とゲストの間を埋めようとすると違いばかりが際立ってしまうエキサイティングな2時間でした。すごくおもしろかったです。

中村さんは全然感性の人なんかじゃなくて、理系男子いやちがうな理系研究者の気配がすごくしました。ものの表面に貼ってある意味を通り越して分子のふるまいを見ていそうなあたりが。物質おたくというか物性おたくというか。

たとえば何かの法則を一般式で表そうと思ったときに、理論的にはたとえばf(x,y)になるはずなんだけど、現実には分子の大きさやら質量やら分子間力やらが無視できなくなって f(x,y)+α ていうおまけがついてきたりこなかったりしますよね。多くの人はかっこよくて役に立つf(x,y)を作ることに命を賭けて、αについては近似式を作るなりしてあとから処理を考えるんだけど、この人の場合「αはある」というところからスタートしているというかなんというか。かといってf(x,y)を無視してるわけじゃなくて、αを考えるために必要ならばf(x,y)も考慮するというか。そういう立ち位置のせいで月から来た人っぽく見えるけど、アプローチは仮説→実証のくり返しという世間の科学者とあんまし変わらないやり方なんじゃないか。それを独特の世界観とかいう言葉で呼んじゃうのはちょっと不用意なんじゃないか、よく理解できない他者を「人それぞれ」で切り捨てるのと同じような乱暴さがあるんじゃないか。「『世界観』は外的要因として与えられるもの(であって自分が持っているものではない)」て中村さんも言ってたし。αが何なのかよくわからないのでたとえ話ですみません。